あおろぐ

人が生きると書いて人生。額面より可処分量。支え合いより与え合い。

絶対に必要なものはこの世にひとつも無い。あるのは、『あったらいいな』という想い。

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何年か前の夏に、地域の花火大会へ行った時のこと。「花火ってなんでやるんだろう?」ということを考えていた。

 

花火がなければ夏が成立しないわけではない。花火がなくても暑い暑い『夏』という季節はやってくる。それなら花火大会は何のために行われるんだろう?なくてはならない理由がない。

 

ここにいる見物客たちは、何を想って空を見上げているのだろう?「来年から花火大会はありません」となった場合、この人たちはどうやって夏を終えるのだろう?

 

花火大会がなくても、死ぬことはなくて、何事もなく夏は過ぎていく。

 

あるのはきっと、

「今年は花火大会なかったんだね」という事実確認と、

「ちょっと寂しいね」という想い。

 

その夏の日から、ずっと考えている。

 

 

この世の全て、「コレがないとダメ」というものは無い。絶対に必要なモノやコトやヒトなど無い。あるのは、『あったらいいな』や『ないと寂しいね』という想いであり、それは感情だ。

 

『感情』は、とても非効率で、実体のないものだ。本来、感情は必要のないものだ。

しかし、なぜ人はこれほどに感情を持ち出し、感情に左右され、感情によって非効率な活動をしようとするのだろうか?

 

 

それは、生を愉しむためだ。

 

 

僕たちは、生まれた瞬間から死に向かっているという、「制限のある生」の中で活動している。それは人、犬、猫、植物など、あらゆる「生」に共通していることだ。そのようなルールがある以上、命というものは大きなシステムの中で稼働するデータでしかないと考えられる。システムの本体は宇宙なのか、宇宙を擁する何かもっと大きなものがあるのかはわからない。『命は尊い』ということは後付けの感情論であり、そんな風に思わなければならないルールを宇宙は創り出してはいない。

つまり何が言いたいかというと、我々生物はただのデータなので、生まれようが消えようがさして問題ではない、ということ。

 

『感情』というものを否定するわけではない。

 

僕が現在生きているのは、この感情があるおかげだ。生まれたこと自体に意味はないと考えるようになってからも、生きることを選択し続け、今日も明日も生きていこうとするのは、そう選択しようとする感情があるからだ。この「生」に何か意味づけをし、それによって愉しみたいと思う気持ちがあるからだ。

 

生を受けた瞬間から、基本的に僕らは遊ばせてもらっているのだ。遊びたいと思いつづける者が明日も生きることを選び、死の瞬間まで生きつづけることができる。感情はヒトが生きるためのツールだ。

 

そして逆を言えば、感情はヒトが死ぬためのツールだ。

 

ヒトは「こうだったらいいな」や「こうありたいな」という想いで生きる。その実現を追いかけて生きる。「自分なんか死んでしまえばいい」と思えば死ぬ。自ら命を絶つ。

感情は、生き方(死に方)を選ぶツールだ。

 

 

僕がいなくても成立するこの世界での自分の存在の小ささに気づく。それでも僕は、「あいつがいたらいいな」であったり、僕がいなくなった時誰かに「寂しいな」と思ってもらえる人になりたいと願う。命を繋ぐというのは、そういった人間のエゴを叶えるための方法なのかもしれないなと、甘えて僕にのしかかってくる息子を抱きしめながら思った。