あおろぐ

絶対に必要なものはない。あるのは『あったらいいな』という想い。

幸せを増やす足し算で生きる人、幸せを減らす引き算で生きる人

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同じ空間で、同じ時に、同じ人の話を聞いても、その受け取り方は様々。自分の糧にするつもりで聴く人もいれば、興味を示さずに終わる人もいます。それは様々でしょうがないことなんだけど、その「姿勢」も自分で選んでいるということを忘れてはならないと思います。つまり、その「姿勢」に責任が伴うということです。

 

 

 

自ら進んで参加した講演会だとよっぽどそういったことは無いと思うけど、誰かが誘ってきたり勧めてきたりしたものに参加する時に起こりやすいのが「どうせ〇〇だから」という考えだと思います。

 

「どうせあの講師が恵まれてただけでしょ?」

「おんなじようにやってもどうせ自分には出来っこない」

「やろうとしてもどうせ周りが邪魔をして、自分が馬鹿をみるだけだ」

 

そりゃ出来るならそうしたいと思っているのに、何かと理由を付けて自分にはできないと決めてしまいます。それだけでなく、目の前の「成功者」に批判的な感情を抱き、話を聞く耳さえ失わせてしまいます。これでは孫正義を連れてこようが、ホリエモンを連れてこようが意味がありません。

 

話し手が悪いわけではありません。意味がなくなってしまうのは、聞き手がそうなるように選択しているからです。

 

 

 

あくまで一人一人の選択なので、強要することは難しいものですが、僕が思うにその両者の違いは、「足し算か引き算か」の違いだと考えます。

 

足し算の人は、自分自身に学びをプラスしていくことで、自分を高めていこうとします。現状に不平不満があっても、誰かのせいにするのではなく、自分の成長や成果を高めることで人生の豊かさに近づいていこうとします。その時、他の誰かが自分よりも多くの給料や、高い役職や、地位を持っていたとしても構いません。自分自身の幸せの絶対値をみています。

 

引き算の人は、自分以外の誰かを低く見ようとすることで、自分の位置を高くしようとします。引き算の人は、自分の幸せを相対値で測ろうとします。なので、圧倒的に自分より高い位置にいる(と思い込んでいる)相手の時には、どれだけ批判的な姿勢で下げて見ようとしても無理があるので、そういう場合は無関心に切り替わります。

 

 

どちらを選んでも良いのですが、その選択によって人生の豊かさ、幸せの定義というのは変わります。

 

足し算は、幸せを自分で創り出し、限りなく高めていきながら、幸せになります。

引き算は、幸せをある程度諦めながら、残った分の幸せで自分を納得させることで幸せになります。

 

なんだかんだ、どちらも幸せにはなれます。幸せは条件があるわけじゃなく、自分が幸せだと思ったら幸せなんですよね。

 

でも、僕が思うには、幸せは独り占めしなくていいということなんです。だから、誰もが自分の幸せと向き合いながら、周りの誰かの幸せも応援しながら、ゼロサムではない、誰もが幸せな人生を送っていけばいいと思うんです。なので、僕が願うには、みんな足し算だったらいいなと思います。

 

 

 

僕は会社を辞めて、未だに収入がありません。会社のためにと誰よりも考えてきた自分が今無収入で、あらゆる活動に批判的だった在職者が毎月給料をもらって安定した生活を送っています。おかしいでしょ?

 

おかしくないんですよ。変な例えになりましたけど、ちっともおかしくない。なぜなら僕は、まだいろいろと未定な部分を抱えながらも、「働いていない」という非日常な日常を、家庭の柱としてドキドキしながら、父としてメロメロしながら、人としてワクワクしながら、生きています。

 

人生はトレードオフです。何かを得たら、何かを失うんです。僕は安定した収入と会社員という社会的信用を手放しました。そしたら、不安定と自由を手に入れました。どちらが絶対に幸せかということはありません。幸せは、選んだ道で、自分で創り出していくものです。

 

 

幸せの創り方。足し算と引き算の考え方の違いはきっとどこまでも平行線です。他の人がどうであれ、それぞれで良しとして、自分は自分の人生の責任をとって生きていきましょう。

 

 

 

 

あと、ここからは誰かを否定するつもりで書くことではなく、僕個人の感覚として受け取ってもらえたらと思うのですが・・・

 

よくある一般的な人生を生きるとした時に、自分自身にどういう意味があるのかがわかりません。卒業して、就職して、定年まで勤めて、老後暮らし、といったモデルだったら、僕の体を貸してやるから誰か他の人がやってくれよ、と思うのです(今後こういったモデルは破壊されるだろうけど)。

 

よく言われるけど、人生って一度きりじゃないですか。その一度きりの人生に、正解も不正解もありゃしないと思いませんか?死んだ後誰が採点して、誰が僕に教えてくれるっていうんですか?僕も理性や良識はあるので犯罪はしませんが、そういう類のこと以外なら、たいていのことは大丈夫だと思います。

 

「定型化」されたほうが管理はしやすいので、これまで右倣えの教育が徹底されてきました。「多様性」という言葉が浸透してきた現代でも、その右倣え精神は拭いきれていません。それは戦後の復興を支えた尊い教えでもあり、呪縛でもあると思います。

 

僕らの子供たちが生きていく時代は、どのような生き方が良いのでしょうか?間違いなく言えるたったひとつのことは、「僕の時代にはなかった生き方」なんだろうと思います。

 

子供が生き方を選ぶ時に、僕の古く固まった考えが邪魔してしまわないように、自分も常に学びながら、生き方をアップデートし続けていきたいと考えています。生きているうちに常識なんてのはコロコロ変わるものです。今後はその変化がより一層速くなるでしょうから、いっそ非常識に生きていた方が順応するかもしれませんね。

 

 

 

【今日のアイキャッチ

水彩絵の具を手につけてお絵かきする弊息子。木とか虹とか人とか、上手に描けていると思うでしょ?はい、そのあたりは妻が描きました。

 

そんで、お絵かきの後の手がこう。いい顔してるわ。

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